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secretbase~君がくれたもの~ [オヤジの気まぐれ]

   今日は国の基準値を超えたPM2,5のお陰で外出を控える様に注意を促された。
      今週末は「運動会」がアチコチで予定されてますが、
         雨とPM2,5と両方気にしなくちゃいけなくなりました。

   文久4年(1864)2月19日 熊城下本陣に入った「勝海舟」一行。
              「横井小楠」のもとに使者として「坂本龍馬」をおくりました。

   話はこの続きからでしたネ。
   勝海舟は士席剥奪され謹慎していた小楠に龍馬を通して時事問題を伝え金品を贈りました。
   この折、小楠は甥の左平太・大平等を神戸の「海軍操練所」に入所出きる様に依頼をします。   

   (元治元年(1864)5月、海舟は軍艦奉行[役高2千石]に任じられ、
                   正式に海軍操練所が開所されます)

   元治元年(1864)2月20日 元治と改元 (海舟は3月に変わった事を知ります)   

   元治元年(1864)2月21日 新町出立、馬にて高橋宿に至る とあります。

   熊本で高橋と言うと「高橋稲荷神社」が有名です。

高橋稲荷神社.jpg

   この神社は熊本駅尾西南西約3km、坪井川の南に鎮座しています。
   九州三稲荷又は日本稲荷五社の一つに数えられると云うこの社は、
   山の斜面を利用したお城のような石垣と、
   稲荷らしい煌びやかな彩色が目立つ鉄筋コンクリート造の社殿が、
   地形の高低差を上手く利用して造られています。

   (私のリサーチ不足で今回は宿場の特定が出来ませんでした、スミマセン )

   高橋郡奉行の岩崎物部に面会、志士なりと云う (幕府の命で長崎へ行く事情を話す)

   高橋宿よりやや下った「八城橋」付近で白川を下る

八城橋.jpg

   同所より乗船、此夜島原へ渡る
   此地、小川あり、小舟にて川口へ下る、半里

   川舟に乗り2km下り、白川河口で通船に乗り、夜 島原に向かいました。

   (通船の全長は18m巾は2m船頭は3人、乗船人は5~7人、
                        多分3艘位で渡ったと考えます)

   元治元年(1864)2月22日島原に明け方着船城下本陣へ休息
   (本陣とは、大名等の宿泊所で、島原では町年寄・中村家の屋敷が利用されている)
   直ちに出立 一行は長崎を目指しました。

「中村家別当家屋敷門.jpg

   と、ここまでが「勝海舟と坂本龍馬が熊本を訪れて長崎に向かった時の件」
                                  これにて全巻の終わりとあいなります。

   かなり勉強不足で判り辛い部分も多々在るかと思いますが、どうか勘弁してください。

   今回の経験で身近に凄い偉人を感じることが出来て楽しかったです。
         お付き合い下さって、どうもありがとうございました。

   (まめにアップするのって大変ですネ、やっぱり自分のペースが一番!)


   
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ありがとう [オヤジの気まぐれ]

   天気予報では熊本は「晴れ」なのに、空全体に霞懸かっていて「曇りの日」みたいです。
   PM2,5予報では連日かなり高い数値が続いてます。
  
   朝は涼しくて昼になると「ガリガリ君」ペロリと食べれる程暑くて夜はまたヒンヤリして、、、
   この時期の過し方には気を使いますネ。

   さぁ、熊本入りした「勝海舟と坂本龍馬」一行の続きでしたネ。
   長州が外国船を砲撃してその報復をしようとする米、英、仏、蘭との交渉の為、
   長崎に向かう彼らは元治元年(1864)2月19日
   今の熊本市新町にあった本陣「お客屋」に入ります。

御客屋跡.jpg

   その後明治天皇と西郷隆盛も宿を取られたとあり、
   跡には幼稚園が立ち傍らの記念碑だけがそれを記しています。

   その時の事を「勝海舟」は、
      熊城下新町之本陣に宿す、候より十文字之鑓刃を賜ふ
      我門之藩士数人来訪 と書いています。

勝麟太郎.jpg

   宿に着いて折り返し「勝海舟」は「龍馬」をここから15km程離れた
   沼山津の「四時軒」で謹慎していた「横井小楠」のもとに見舞いに向かわせます。

   (熊本藩による小楠の謹慎の処遇をはばかり海舟直接の面会を慎んだようです)

横井小楠.jpg

   いくつもの事件を起こしては謹慎ばかりしている人で、結構やんちゃやってます。
   それに御存知の方も多いとは思いますが、
   このオッサン当時はぶっ飛んだ考えを持っていて

   1、将軍はまず京都に行って天皇家に過去の無礼を謝んなさい!
   2、参勤交代は金が掛かるし無駄だから止めちゃおうヨ!奥さん達も里に帰りナ!
   3、政をするのに身分など関係ない!優れたヤツ大歓迎!
   4、これからは外国と商売しなきゃ駄目だよ!
   5、だったらどうしたら良いか皆で考えて意見出し合ってさ実行しょうぜ!
   6、外国と同等に渡り合うには「海軍」を興してさ訓練して相手をビビらせなきゃ!
   7、その為には幕府だの藩だの取っ払って「日本国」で頑張らなきゃ!

     と こんな風には言わなかったでしょうけど、
         九州の片田舎の「保守的な熊本のお偉いさん」には、煙たい存在だったようです。
         それでも身分の隔たり無く教えを請う人には親身に接したとあります。

   (ですから小楠の居た地域から排出された塾生は熊本の偉人が多いのも事実です)

   「熊本」が理解を示せば良かったんですが「小楠」は「松平春嶽」にヘッドハンティングされ
   「幕末期の藩政改革モデル」として
   既に財政破綻していた「福井藩」を見事に短期間で立直しちゃったんです。
   これ以降、小楠は松平春嶽のスーパーバイザー的な存在になっていきました。

         (小楠先生!俺一生付いて行くっス、、、的ナ) 
     
   この凄いオッサンですが、文久2年(1862)「お酒」が災いした不手際で、武士の位を剥奪され、
                   周りには「山と田んぼ」しかない所で謹慎くらって居りました。

四時軒.jpg

   この時「龍馬」と会うのは4回目で「四時軒の11畳の客間」で、
   小楠は龍馬の話を聴き後に「海軍問答集」の筆を執ることになります。

四時軒 客間.jpg

   「龍馬」の業績に多大なる夢やヒントを送った「小楠」ではありますが、
   6回目の慶応元年(1865)5月長州藩を討伐しようとする小楠と龍馬は対立し
   「ここから出てゆけ!」と小楠の言葉を最後に二度と会うことはありませんでした。

   明治元年(1868)、小楠は新政府に参与として出仕しますが、
   翌2年(1869)1月5日 に参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側
   (現在の京都市中京区)で暗殺されました。  享年61。

皆さん御存知 坂本龍馬.jpg

            (龍馬暗殺から3年後のことでした)



         で、やっぱり to be continued.
   


   


   
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Over the rain [オヤジの気まぐれ]

   この間からこっち私があちこち連れ回したせいで
     「ほっぺが日焼けしちゃった」と奥さんからブーイング。
       女性には酷な事をしたとチョット反省しました。

       前回からの続きでしたネ、
     内牧に宿をとり、翌日は的石御茶屋、二重峠、大津宿を経て
   熊本城の新町にある本陣の「御客屋」を目指します。

   的石の御茶屋跡を後にして道なりに車を走らせると
     「豊後街道」の道標を発見!

豊後街道の道標発見!.jpg

      脇に寄せてチョット歩いて入ってみます。

豊後街道に入る.jpg

   そう言われないと判らない普通の林道です。
     車に戻りもう少し行くと「参勤交代の石畳」の駐車場を見つけ車を停めて
       案内板に従い歩いて行くと、、、。

参勤交代の道 石畳.jpg

   さっきの林道に続いた石畳の街道に行き着きました。
     ここから二重峠までの道は険しくて土質が火山灰であるがゆえに、
       雨の度に道がいたんでしまい九十九折れの急坂に石畳が敷き詰められています。

   石畳の施工や補修の為に近隣の農民が駆り出されたと聞きます、
     その年月や苦労たるや計り知れません。

   この道は急勾配の二重峠まで続いていますが今回は車で回り道して参りました。

二重峠からの阿蘇五岳.jpg

   勝海舟は「海舟日記」にこう書いています。
     二重之峠あり、甚高く、峠之道十八・九町最難所、路山之脚殆と頂上をめくる。

二重峠 豊後街道.jpg

   二重峠は標高683m、
     参勤交代や農民が年貢米を運んだりと熊本への交通の要所だったようです。
     今回感じたのですが、今では「橋」を造ればかなりショートカットできるにも拘らず、
     それをしていないという事は当時「橋」を建造するのは容易ではなかったのだと知りました。

   さぁ、峠を越えて下れば「大津宿」です。
   ここからは清正が植栽した杉の広い街道が熊本まで15km続いて、
   遠くに熊本城下を望むことができました。

      (今ではところどころに、その名残があるだけです)

大津街道.jpg


   大津宿より熊城下迄は少低之路、左右大杉之並樹、
     此中桜之大樹十四・五之並樹あり、道巾甚広、
       熊城を路二里程より望む、天守孤立、画築制他城之比にあらず、
         外周最大なり、武士屋敷其中にあり、郭畳高く、堅牢おもふべし!

   勝海舟はその日記で「熊本城」をべた褒めしてくれてます。
    
        (細川の殿様になんかもらったかナ?)

西南戦争前の熊本城.jpg


      そんでもってヤッパリ  To Be Continued      






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evolution [オヤジの気まぐれ]

   お待たせしました、前回の続きですよネ。

   1864年2月 勝海舟は「四国艦隊下関砲撃事件」調停の幕命を受け、
   坂本龍馬を含む14人の塾生と共に江戸から 2月15日 佐賀関に上陸した後、
   「豊後街道」を通って熊本経由で長崎に向ったとあり、

参勤交代.JPG

   (クリックすると豊後街道の画像が大きくなります)

   まず最初は上陸後5日目(2月19日)に宿泊した場所へ向かいます。

阿蘇体育館.jpg

   コチラは阿蘇の内牧に在る阿蘇体育館で周りには温泉地らしくホテルが点在しています。

     (優しい泉質の温泉が一行の疲れをきっと癒したに違いありません)

   以前にはここ一帯、出城である「内牧城」が在りそこを参勤交代等で宿泊する宿として
   「内牧御茶屋」を設置して在りましたが残念ながら開発により痕跡は伺えません。

内牧御茶屋本門と大杉.jpg

   いまや城跡は市民の憩いの場になり、案内板だけが当時を知る手掛りとなっています。

      (”夏草や兵どもが夢の跡、、、”)

本丸跡.jpg

   山の麓伝いに左手に壮大な「阿蘇五岳」のパノラマを観ながら数キロ上ると、
   当時の佇まいを残した「的石御茶屋跡」が見えてきます。

   休憩地である屋敷内の庭には滾々と湧き出る北外輪山からの伏流水で泉水が形づくられ、
   御茶屋泉水として「くまもと名水百選」に選ばれて紅葉の時期には沢山の人が訪れます。

      (時は2月、辺り一面の雪景色を観ながら龍馬一行は先を急いだでしょうネ)

的石御茶屋跡.jpg

   ここで喉を潤し「豊後街道」難所の1つ「二重峠」に向かいましょう。


   そんでもって "It is to be continued."   






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いつも何度でも [オヤジの気まぐれ]

   久々の雨に埃っぽかった熊本は潤っております。
   これから黄金色の麦の刈り入れが始まり続いて田に水が入り田植の時期が来ます。

   昨日まで天気に恵まれお陰で方々出かける事が出来て楽しい時間を過せました。

   事の始まりは12日に奥さんと珍しく時間が空いた息子を連れて御墓参りを兼ねて
   南島原市にある「加津佐町」にドライブに行った時の事。

加津佐町 前浜.jpg

   島原名物「具雑煮」を頂いて帰りに立寄った南島原駅の、、、

南島原駅.jpg

   近くにある小さな船溜り。

坂本龍馬 島原上陸の地.jpg

   残念ながら周りの景色は当時の面影はありませんが、
   写真中央に陸へと上がる石段が見て取れる。
   これが坂本龍馬が島原に上陸した階段だと言われております。

   文久3年(1863)長州藩が関門海峡を通る外国船を攻撃するという事件を起こした。
   翌元治元年(1864)2月、幕府より調停役を命じられた勝麟太郎は、
   調停場所となった長崎へと向かった。

勝麟太郎.jpg

   この時、同行させた「神戸海軍私塾」の塾生14人の中に
   皆さん御存知、「坂本龍馬」の名前を見付ける事が出来ます。

   「勝」の門人として海軍建設に大切な人材になっていた「龍馬」。
   時は志士に対して弾圧が強くなり「武市半平太」も獄中に在り、
   藩の呼び出しに応じず自ら藩から追われる「脱藩浪士」になった龍馬の身を案じ、
   物騒な京都に置き去りにするより随行員として同行を許したと言われております。

皆さん御存知 坂本龍馬.jpg

   聴く所によると寂しがり屋の「勝海舟」は、
   龍馬をはじめ賑やかな連中と旅の中で「志」を確かめたかったのかも、、、。   

   あれっ?島原の前は「龍馬」は何処にいたんだっけ?

       それは「熊本」でしょう! 

   だったら調べに行こうじゃあ~りませんか。
   
   果たして「龍馬一行」の熊本での動向はどうだったか
   空っぽの私の頭とバイタリティーを使ってこれを追ってみたいと思います。


          to be continued






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